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令和6年5月22日、高知から恵美子先生が出発されました

 令和6年5月22日に、高知でお亡くなりになってから7ヶ月目のこの日、谷口恵美子先生のご遺骨、霊璽、2本の祭柾は、晩年の10年間住まわれた宮澤家から、宮澤潔代表、壽美夫人に伴われて出立、東京の次男・谷口雅宣氏の弁護士が高知まで受けに来て引き渡されました。多磨霊園における引き取りの準備が整ったとのことです。恵美子先生が、埋葬に向かう段階へ進まれましたことを、神様に開祖に、次女壽美氏、宮澤潔代表と共に『ときみつる會』一同、こころより感謝しております。

次に壽美氏のこの日に捧げる言葉を掲載いたします。(広報部)

いつも花を愛でて暮らした母へ

高知の5月の花、ヒメシャラが咲きました


 母・恵美子は、長年住み慣れた東京の地を90歳にて立ち去り、ここ高知へ移住しました。そして9年後の令和5年10月22日に亡くなりました。

私が26歳で結婚してから5人の子を海外で授かったその期間は、実家を訪れてゆっくり話をする機会はほとんどなかったものの、若き26年間を母と共に生きて見聞きした思い出は相当深いものでしたし、海外赴任時もことあるごとに日本のビデオや絵本を送ってきてくれ、日本の教育をサイドから助けてくれたのでした。

母は大尊敬する祖父、開祖・谷口雅春先生と輝子祖母とに大切に育てられ、かつ祖母には厳しく躾けられたようで、年中そばに居た従姉妹の栗原晴子おばさまから「よく『厳しいのよ』と輝子先生のことを打ち明けていた」と私は聞きました。

母は父とも子供の目から見ても仲良く趣味も合って、子らを平等に慈しんでくれ、あまり教育には厳しくなく放って置かれた気がしています。

開祖と父との間に何か齟齬があり、意見の相違に母が板挟みになったかのようにしたり顔で言う向きがあったとしたら、母の書物をどうぞ読んでください。どんなに母が祖父と父の間で自らを律し、まなび、お二人の存在に感謝して来たかが理解できるのではないでしょうか。

私自身、東京生まれなので高知に知り合いとてなく、親しみのなかった土地でしたが、住むにつれて住みよくなる土地柄なのがすぐわかりました。母も、東京のど真ん中の空気・風情とはちがう快さ、珍しさをみつけては、嬉しそうに何度も口に出していました。

今はどのあたりを歩まれていますか?

歩むのではなく、きっと颯爽と天界を飛行しておられるのだと思いますが、今はいつでも近くに来て下さって私たちを導き、教え、見守りいただけますことを信じております。

長い間、開祖の御教えを遵奉して進まれて来た多くのかつての生長の家誌友の皆様、開祖ご夫妻と共に過ごした母をご存じの方々に、母の永遠の魂のはばたきと喜びをここにおつたえ致したく、したためました。 

 宮澤 壽美 拝


令和6年(2024年)2月25日に、恵美子先生100日祭、行われる

 高知の元恵美子先生のお住まいにて、令和6年225日の日曜日、小笠原貴紀土佐神社宮司をお迎えして百日祭が行われ、幾日幾年も永久(とわ)に開祖の御教えの発展、及び子孫の行く末を導き給う御霊(みたま)となられ幸多かれ、との祝詞がささげられました。祈願をお聞き取りいただけた気持ちですと、参列の家族は安堵した旨、聞き及んでおります。御霊様のご冥福をお祈り申し上げます。

(『ときみつる會』事務局)


令和5年(2023年)1213日に、恵美子先生50日祭、行われる

 去る12月13日、ドリーマー高知葬祭館にて、谷口恵美子先生の50日祭がしめやかに行われました。通夜・並びに告別式に儀式を挙行された土佐神社・小笠原貴紀宮司により、一同着座ののち修祓が行われ、献饌、祭詞奏上と続き、斎主らのあと喪主を始めに、家族、近親者、参加者による玉串奉奠礼拝が粛々と行われ、終了致しました。

  今後ご遺骨は墓所へ埋葬されることになりますが、すでに高く天界にて私たちを見守り導いていただいているとの感を益々深くしている次第です。


遺影


令和5年10月22日、谷口恵美子先生が逝去されました。

  御年90歳の平成26年4月から、高知の次女宅で暮らしていらした恵美子先生ですが、最後の1ヶ月超、高知市内の介護施設に入所されて、そこで安らかに昇天されました。

  開祖・谷口雅春先生ご夫妻の一人娘として生を享け、開祖の御教えの伝道に尽くされたそのご生涯を

100歳(満)で閉じられたのでした。

 高知ではご葬儀および50日祭を執り行って、先生のご昇天を悼み、感謝を捧げつつ、天界での新たなご天命の限りない栄光をお祈りいたしました。

 ご葬儀にての一コマをここに掲載させていただきます。


写真:母、谷口恵美子の旅立ち


写真:母、谷口恵美子の旅立ち


写真:母、谷口恵美子の旅立ち


母、谷口恵美子の旅立ち

遺影


 令和5年(2023年)10月22日に天界へ還りました母は、その10月10日で満100歳を迎えていました。

 母の母、輝子先生が92歳で(1988年)、清超父上が89歳で(2008年)亡くなったので、母は、自分の長寿に自分で驚いていたものでした。開祖・谷口雅春先生は91歳で(1985年)帰幽されております。

 10月21日真夜中、私はなぜかなかなか寝付かれずにいました。

 亡くなる2ヶ月前から母は食事を受けつけなくなってはいましたが、10月10日の100歳を迎えられるように、とスタッフの皆さん一丸となってお世話下さって、コロナの余波で医療・介護施設の面会謝絶が続く中、近親者でも10分だけと時間を限られて会うことができていました。姉の6人の子ども達全部が、母の容体を心配して東京から、萩から、駆けつけてくれ、ある者はとんぼ返りで、あるいは最終便であわただしく帰るという心意気を見せてくれていました。母は発声もおとろえ、一人ひとりに黙って手を差し出したり手を振ったり、めずらしいので一瞬声を立てたりし、主人が、届いていた内閣総理大臣からの100歳記念賞状と、祝い銀杯(写真)を持ち寄り見せると、目で文章を追って読み、ゆっくり合掌しました。その様子は開祖・雅春先生を彷彿とさせるものでした。

写真:母、谷口恵美子の旅立ち


写真:母、谷口恵美子の旅立ち


写真:母、谷口恵美子の旅立ち


 食べなくなって久しいのに母はしっかりと生きてくれて、私たちに「もしかしたら辰年のお正月を迎えられるのでは?」との希望まで抱かせました。けれど突然容体は変わって22日の夜となったのでした。


 母は高知市民となり9年と半年を私たちの家で過ごして、高知の風物、食事などを楽しんでくれました。


 「生長の家」の御教えの開祖・谷口雅春先生の一人娘として大正12年(1923)に生を亨けた母。その年9月1日には関東大震災に見舞われ、開祖は臨月の輝子先生をかばいながら、東京から富山県高岡に避難されました。母の歴史はその時に始まり、ここ高知で閉じたのでした。

 生涯に亘って色々と悩み苦労したこともあったでしょうし、夫や子らと楽しんだ事柄も山のようにあった中、ハッキリ言えるのは、雅春先生を心の底から信じ(その心はほとんど信仰といえるものでした)尊敬していたことです。そんな母を手元のアルバムを繰りながら今、偲んでおります。

 ほんの少しながら、母の在りし日の姿をここに紹介しております。公の立場として教団の役職にあった時よりも、より濃く、思い出深く、かつ人間臭く、母は私に9年半の記憶を遺してくれ、それはこれからの私の宝となることでしょう。すぐそこに、天界で開祖ご夫妻の元に還って談笑している母の姿が思い浮かぶこの頃です。

令和5年11月22日

『ときみつる會』代表夫人 宮澤 壽美


昭和2年 

恵美子夫人写真

御教え発祥時代

平成26年~令和5年まで 

恵美子夫人写真

高知の自然の中で暮らしました

恵美子夫人写真


恵美子夫人写真


訃報に対してのお便り(一部掲載)

・宮澤先生、壽美奥様へ

 お美しい恵美子奥様の百歳での御昇天のお知らせを拝受しました。

心から深く御冥福をお祈り申し上げます。

私どものあこがれの恵美子奥様の御霊は、大空に光り輝く美しい星となられて、生き通しの永遠の生命のきらめく光を放ち続けて下さることでしょう。

私より十歳ご年長でいらしたので、ただただ毎日の心の支えとさしていただいておりました。ありがとうございました!(兵庫県会員)


・幾年を 友と過ごせし母上の

  天翔るやと知り 吾をろがむ(東京都会員・支部長)


・恵美子先生のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。いつも「心のかけはし」誌の中で、あたたかでお幸せそうなお姿を、楽しみに拝見しておりました。きっと高知の「神霊殿」の上あたりでほほえんでいらっしゃるのではと想像しております。遠く明石よりご冥福をお祈り申し上げます。(会員)


・壽美先生

慎みて恵美子先生のご逝去を悼み心よりご冥福をお祈り申し上げます。

100歳をお迎えになられ、なおお元気でお過ごしを嬉しくありがたく皆様と共にお慶び申し上げておりました。

誠に切なく残念でなりません。せめて『ときみつる會』の新たな〝神霊殿〟の完成(編者注:来年完成予定)を見届けて頂きとう存じました。

開祖ご夫妻、清超先生と共に天界より、国家安泰、我らの活動を護り、お導き賜りますことでしょう。

壽美先生は晩年ずっと共にお過ごしになられ、お世話をなされて来られましただけに、お別れは如何ばかりかと切なきことと拝察いたします。

御尊家の皆様は永遠生き通しと知りつつも、お姿、お声がなきことは切なく淋しいものです。

何かとお忙しい事と存じますが、ご無理をなさいませように、どうぞお元気を出されてお過ごし下さいませ。(会員、会伝道部長)


・百歳の天寿を全うなされまして、清らかにお美しく、いと高き霊界へお旅立ちなされました恵美子奥様。

 これまでの沢山のご愛念を賜りましたこと、唯々感謝の気持ちで一杯でございます。お山(編者注:原宿の開祖自宅)での3年間が今、走馬灯のように蘇って参ります。雅春先生を中心に、日々お暮らしのお姿を常に拝見させて頂き、恵美子奥様からご指導賜りましたこと、どれほど尊くありがたいことであったか、と改めて感じ感謝で一杯です。素晴しいご本、詩集、写真集、聖歌をありがとうございました。心が洗われて自然と素直な気持ちにさせていただきました。お優しいお言葉の一つひとつ、一枚一枚のお写真が真理を語りお示し下さっていて心に深く響いております。(略)このご恩返しは、一人でも多くの方に真理をお伝えしていかねばと思います。いつまでも私の心の中に生き続けて頂けますことに感謝申し上げます。

壽美さまへ

この度は最愛なるお母上様のご逝去、誠にご愁傷様でございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

壽美様ご一家様のご心中いかばかりかとお察し申し上げます。

本部よりネットで送られて来た清超先生十五年祭に参加していましたら、そこに恵美子奥様御逝去の一報があり、おどろいて黙祷を捧げておりました。自宅で奥様のお写真をかかげ、お聖経を拝読しておりましたら、前後して貴康様からの発信を別のところから送られて来まして、そこの恵美子奥様のお写真がまた、何ともにこやかな笑顔…思わず声をだしてしまい感動いたしました。(略)白いお髪に笑みをたたえて、雅春先生によく似ていらっしゃるように思われ、神々しくご立派なお旅立ちでしたことを知りました。これからはきっと、いつもおそばで壽美様ご一家様をお守りくださるのでございましょうね…これまで本当にご多忙の中にて、私如き者にもいつも真心のお返事を戴き、深く感謝申し上げます。ご主人様にもどうかくれぐれもよろしくお伝え下さいませ。(略)(九州、教団関係者)