母が去って一年になりました。
10月10日生まれなので、生きていたら令和6年で101歳。現在ではそう珍しくない高齢ですが、なかなかこの歳で元気で現役の方はそう多くはありません。例外的におられると本当に敬いたくなります。
その人生はおよそ大正時代から令和本年までですから、何と変化に富んだ起伏の激しい時代だったことでしょう。それだけでも今の「平安時代」には考えられない体験をされている方々です。
令和6年12月に拙著『その時、そこにいてくれる人』と題する本を出版いたします。
母との思い出を主に、その母からの見聞や私との生活を書いていながら、開祖・谷口雅春先生、輝子先生の面影と教えが見え隠れしています。教えの開祖であり祖父母なのですから、当然といえば当然ですが。
紙媒体の廃れる昨今とはなりましたが、秋の深まる、いえ冬の寒さを避けながらの暖房の部屋ででも、お楽しみいただけたら幸いです。
(令和6年11月23日 新嘗祭の日に 宮澤壽美)
令和6年年7月27日から29日にかけて、高知の『ときみつる會』「神霊殿」にて、 第39回護法伝修会が開催され、開祖・谷口雅春先生ご復活祭(今年で天界に戻られてから39周年にあたる)とともに期間中、「神霊殿」落慶祭(竣功奉告祭、観音堂開所法要)が盛大に執り行われました。
そのときの参列者のお一人から私は「去りし日々に想いをよせて」と書かれた和紙に包まれた〝吉野葛ヨウカン〟を母の初盆に、といただきました。
その前には千葉のお友達から信濃リンゴのジュースも母のお供えにと頂戴しました。自分では生活に紛れてしまっていて、もう「初盆」が到来したことに気づかせていただきました。
皆様、ありがとうございました。
高知では8月10日から恒例の「よさこい祭り」が盛大に行われますが、そののち、徳島へと〝祭〟の舞台は移り「阿波踊り」開催となるのです。両方共に夏のこの時期の、〝盆おどり〟の意味や所作が入っている踊りだということです。
昔、今のようにエアコンがなかった時代、お年寄りや病者の多くは、夏の暑さに耐えきれず亡くなられたのではなかったのか、との想いを抱きました。戦陣に倒れることもあったのでしょう。物故者に夏の方々が多いのもうなずけます。さほどに夏は「偲ぶ」季節。茄子やきゅうりを形作って乗り物とし、迎え火を炊いて精霊棚をもうけ、故人縁者をお呼びします。
【「神霊殿」落慶祭、無事に終了し…】
母存命のころは、『ときみつる會』の神霊殿の建設途中でした。
新築成った際には、一番に母を開祖・谷口雅春先生神殿(正式名称は「春永榮(はるながさかえ)神社」)に案内したいと思っていたのですが、完成を待たずに亡くなりました。ですので、おそらく落慶の祝いの日々に母も参加してくれていたのではないかと想うのです。
その節には母用に、と階段に取り付けた「昇降機」も、試運転を経て今回高齢の方々に「便利」と喜ばれて、その方々の喜びを私もおすそ分け戴けました。
何よりも今回の開祖ご復活祭ならびに落慶祭全体で、開祖を慕うまごころで参列下さったかたがたの信仰のお気持ちを、母はしっかりと感じていることと思います。ご参列の会員の皆様、遠方より落慶祭を見守りいただきました皆様、ありがとうございました!今後も諸行事にて高知でお会いいたしましょう。
未だに高知を去った母の「埋葬式」に関しては、音沙汰がありませんが、多磨霊園にてきっと催されたことでしょう。我が家では今月三日に、精霊提灯が出されました。初盆用の白提灯ではありませんが葬儀で飾られたものです。
(宮澤壽美)
母が晩年を過ごした万々(まま)地区の氏神様に「落慶祭」無事終了と母の御見守りのお礼に参りました(三所神社)。
令和6年5月22日に、高知でお亡くなりになってから7ヶ月目のこの日、谷口恵美子先生のご遺骨、霊璽、2本の祭柾は、晩年の10年間住まわれた宮澤家から、宮澤潔代表、壽美夫人に伴われて出立、東京の次男・谷口雅宣氏の弁護士が高知まで受けに来て引き渡されました。多磨霊園における引き取りの準備が整ったとのことです。恵美子先生が、埋葬に向かう段階へ進まれましたことを、神様に開祖に、次女壽美氏、宮澤潔代表と共に『ときみつる會』一同、こころより感謝しております。
次に壽美氏のこの日に捧げる言葉を掲載いたします。(広報部)
いつも花を愛でて 暮らした母へ
母・恵美子は、長年住み慣れた東京の地を90歳にて立ち去り、ここ高知へ移住しました。そして9年後の令和5年10月22日に亡くなりました。
私が26歳で結婚してから5人の子を海外で授かったその期間は、実家を訪れてゆっくり話をする機会はほとんどなかったものの、若き26年間を母と共に生きて見聞きした思い出は相当深いものでしたし、海外赴任時もことあるごとに日本のビデオや絵本を送ってきてくれ、日本の教育をサイドから助けてくれたのでした。
母は大尊敬する祖父、開祖・谷口雅春先生と輝子祖母とに大切に育てられ、かつ祖母には厳しく躾けられたようで、年中そばに居た従姉妹の栗原晴子おばさまから「よく『厳しいのよ』と輝子先生のことを打ち明けていた」と私は聞きました。
母は父とも子供の目から見ても仲良く趣味も合って、子らを平等に慈しんでくれ、あまり教育には厳しくなく放って置かれた気がしています。
開祖と父との間に何か齟齬があり、意見の相違に母が板挟みになったかのようにしたり顔で言う向きがあったとしたら、母の書物をどうぞ読んでください。どんなに母が祖父と父の間で自らを律し、まなび、お二人の存在に感謝して来たかが理解できるのではないでしょうか。
私自身、東京生まれなので高知に知り合いとてなく、親しみのなかった土地でしたが、住むにつれて住みよくなる土地柄なのがすぐわかりました。母も、東京のど真ん中の空気・風情とはちがう快さ、珍しさをみつけては、嬉しそうに何度も口に出していました。
今はどのあたりを歩まれていますか?
歩むのではなく、きっと颯爽と天界を飛行しておられるのだと思いますが、今はいつでも近くに来て下さって私たちを導き、教え、見守りいただけますことを信じております。
長い間、開祖の御教えを遵奉して進まれて来た多くのかつての生長の家誌友の皆様、開祖ご夫妻と共に過ごした母をご存じの方々に、母の永遠の魂のはばたきと喜びをここにおつたえ致したく、したためました。
宮澤 壽美 拝
高知の元恵美子先生のお住まいにて、令和6年2月25日の日曜日、小笠原貴紀土佐神社宮司をお迎えして百日祭が行われ、幾日幾年も永久(とわ)に開祖の御教えの発展、及び子孫の行く末を導き給う御霊(みたま)となられ幸多かれ、との祝詞がささげられました。祈願をお聞き取りいただけた気持ちですと、参列の家族は安堵した旨、聞き及んでおります。御霊様のご冥福をお祈り申し上げます。
(『ときみつる會』事務局)
去る12月13日、ドリーマー高知葬祭館にて、谷口恵美子先生の50日祭がしめやかに行われました。通夜・並びに告別式に儀式を挙行された土佐神社・小笠原貴紀宮司により、一同着座ののち修祓が行われ、献饌、祭詞奏上と続き、斎主らのあと喪主を始めに、家族、近親者、参加者による玉串奉奠礼拝が粛々と行われ、終了致しました。
今後ご遺骨は墓所へ埋葬されることになりますが、すでに高く天界にて私たちを見守り導いていただいているとの感を益々深くしている次第です。
御年90歳の平成26年4月から、高知の次女宅で暮らしていらした恵美子先生ですが、最後の1ヶ月超、高知市内の介護施設に入所されて、そこで安らかに昇天されました。
開祖・谷口雅春先生ご夫妻の一人娘として生を享け、開祖の御教えの伝道に尽くされたそのご生涯を
100歳(満)で閉じられたのでした。
高知ではご葬儀および50日祭を執り行って、先生のご昇天を悼み、感謝を捧げつつ、天界での新たなご天命の限りない栄光をお祈りいたしました。
ご葬儀にての一コマをここに掲載させていただきます。
令和5年(2023年)10月22日に天界へ還りました母は、その10月10日で満100歳を迎えていました。
母の母、輝子先生が92歳で(1988年)、清超父上が89歳で(2008年)亡くなったので、母は、自分の長寿に自分で驚いていたものでした。開祖・谷口雅春先生は91歳で(1985年)帰幽されております。
10月21日真夜中、私はなぜかなかなか寝付かれずにいました。
亡くなる2ヶ月前から母は食事を受けつけなくなってはいましたが、10月10日の100歳を迎えられるように、とスタッフの皆さん一丸となってお世話下さって、コロナの余波で医療・介護施設の面会謝絶が続く中、近親者でも10分だけと時間を限られて会うことができていました。姉の6人の子ども達全部が、母の容体を心配して東京から、萩から、駆けつけてくれ、ある者はとんぼ返りで、あるいは最終便であわただしく帰るという心意気を見せてくれていました。母は発声もおとろえ、一人ひとりに黙って手を差し出したり手を振ったり、めずらしいので一瞬声を立てたり、カードや見舞いの手紙の数々を目で文章を追って読み、ゆっくり合掌しました。その様子は開祖・雅春先生を彷彿とさせるものでした。
食べなくなって久しいのに母はしっかりと生きてくれて、私たちに「もしかしたら辰年のお正月を迎えられるのでは?」との希望まで抱かせました。けれど突然容体は変わって22日の夜となったのでした。
母は高知市民となり、9年と半年を私たちの家で過ごして、高知の風物、食事などを楽しんでくれました。
「生長の家」の御教えの開祖・谷口雅春先生の一人娘として大正12年(1923)に生を亨けた母。その年9月1日には関東大震災に見舞われ、開祖は臨月の輝子先生をかばいながら、東京から富山県高岡に避難されました。母の歴史はその時に始まり、ここ高知で閉じたのでした。
生涯に亘って色々と悩み苦労したこともあったでしょうし、夫や子らと楽しんだ事柄も山のようにあった中、ハッキリ言えるのは、雅春先生を心の底から信じ(その心はほとんど信仰といえるものでした)尊敬していたことです。そんな母を手元のアルバムを繰りながら今、偲んでおります。
ほんの少しながら、母の在りし日の姿をここに紹介しております。公の立場として教団の役職にあった時よりも、より濃く、思い出深く、かつ人間臭く、母は私に9年半の記憶を遺してくれ、それはこれからの私の宝となることでしょう。すぐそこに、天界で開祖ご夫妻の元に還って談笑している母の姿が思い浮かぶこの頃です。
令和5年11月22日
『ときみつる會』代表夫人
宮澤 壽美
平成26年~令和5年まで
高知の自然の中で暮らしました
宮澤先生、壽美奥様へ
お美しい恵美子奥様の百歳での御昇天のお知らせを拝受しました。
心から深く御冥福をお祈り申し上げます。
私どものあこがれの恵美子奥様の御霊は、大空に光り輝く美しい星となられて、生き通しの永遠の生命のきらめく光を放ち続けて下さることでしょう。
私より十歳ご年長でいらしたので、ただただ毎日の心の支えとさしていただいておりました。ありがとうございました!(兵庫県会員)
・幾年を 友と過ごせし母上の
天翔るやと知り 吾をろがむ(東京都会員・支部長)
・恵美子先生のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます。いつも「心のかけはし」誌の中で、あたたかでお幸せそうなお姿を、楽しみに拝見しておりました。きっと高知の「神霊殿」の上あたりでほほえんでいらっしゃるのではと想像しております。遠く明石よりご冥福をお祈り申し上げます。(会員)
・壽美先生
慎みて恵美子先生のご逝去を悼み心よりご冥福をお祈り申し上げます。
100歳をお迎えになられ、なおお元気でお過ごしを嬉しくありがたく皆様と共にお慶び申し上げておりました。
誠に切なく残念でなりません。せめて『ときみつる會』の新たな〝神霊殿〟の完成(編者注:令和6年完成済み)を見届けて頂きとう存じました。
開祖ご夫妻、清超先生と共に天界より、国家安泰、我らの活動を護り、お導き賜りますことでしょう。
壽美先生は晩年ずっと共にお過ごしになられ、お世話をなされて来られましただけに、お別れは如何ばかりかと切なきことと拝察いたします。
御尊家の皆様は永遠生き通しと知りつつも、お姿、お声がなきことは切なく淋しいものです。
何かとお忙しい事と存じますが、ご無理をなさいませように、どうぞお元気を出されてお過ごし下さいませ。(会員、会伝道部長)